All I need is one sun

日常を日常らしくするためのライティング。

ささやかな愛と幸せ、

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気がつくと、私は26歳を迎え三十路目前でフリーターになった。

世の中の酸いも甘いも経験し、社会に出て働きアリよろしく働いた。

日が暮れた灰色の空を見上げながら、何度も何度も"限界だ、死にたい。"と願った。

 

こんな人生まっぴらだ、と日々の生活から逃げ出すように、酒に溺れ恋をした。

 

 

そんな生活ともオサラバして、拷問のような生活環境との折り合いをつけた私は、日常的にできる範囲内での幸せを見出すことに成功したのである。

 

以下、私の素朴でしっぽりとした幸せを紹介しょう。

 

■お酒を片手に少し高いチョコレートとチーズを嗜みながら、映画をみる。

 

■薄暗い部屋の中で音楽に体を任せて、瞼を閉じ揺られる。

 

■作ったことのない料理に挑戦して、恋人に食べてもらう。

 

■煙草を吸いながら、音楽を流し読書に明け暮れる。

 

我ながら、並べてみて実に侘しいが、私にとっての幸せとはこの程度でいいのだ。

こういった幸せを毎日どこかで感じることができるのであれば、それだけで満足なのである。

 

とはいったものの、こういったことで幸せを感じるようになった私は実に孤独な人間ではないだろうか。

友人や恋人がいて、家族も元気にしているというのに、私の生活には愛が不足しているように見えてしまう気がする。

 

では、愛とは何か。

私にとって愛とは、思いやりであり皮肉だ。

 

人の良いところも嫌なところも見て、己の良いところも嫌なところも見せた上で、相手を"愛している"か考える。

その時点で、愛していなければ、その人とはそこまでの関係で、友人になることも増してや恋人になることも不可能だろう。

 

だからこそ、私は愛している人にこんなことをする。

 

愛する人の眼を見て、その人の求めているものに応じる準備をする。

 

愛する人のために、客観的目線を持ちながら相談に乗ってやる。

 

■常に正直な言葉で接し、時には喧嘩をして時にはハグをしてともに喜ぶ。

 

■ありのままの笑顔と泣き顔を見せる。

 

こんなものだろうか。

逆に、私にとって愛を感じるときは私を許してくれた時なのだ。

 

私のことを嗜めるだけではなく、言動や表情を黙認し、時にそれを許してくれる愛が欲しいのである。私の素晴らしい部分だけでなく、汚いところも舐め回すかのように愛してくれる人たちと一緒に年をとりたいものだ。

 

果たしてそれは、叶っているのだろうか。